【銃砲入門】第5回「砲術の流派」

鉄砲(火縄銃)が日本に伝来して以降、火縄銃の製造や射法を紅毛人(こうもうじん/江戸時代にオランダ人を指す言葉)から鉄砲に関する知識を吸収しようと努力しました。
天文二十年(1551)前後から実戦に使用されだした鉄砲の威力はすさまじく集団的に使用する鉄砲隊も編成されました。
砲術は武芸中もっとも重要な部門とされました。『甲陽軍艦』には武芸四門とは、「弓鉄砲兵法馬是四つなり」とあり「稽古いたさば物をよみならい同く書習事肝要に候」とあります。(ここにいう兵法は劔術(けんじゅつ)のことである)
永禄年間(1560年ごろ)には津田監物により砲術の秘伝書が著述され、慶長年間(1600年ごろ)にいたると稲富一夢により、火薬、弾道、姿勢、狙点などを詳細に研究したりっぱな砲術伝書も著述されています。幕末までには、砲術流派も分かれて二百余家に達していました。それらの流派は、津田流、稲富流、田布施流、井上流(外記流/げきりゅう)、田付流、岸和田流、武衛流、関流、森重流(合武三島流)、高島流、等々があり全国各地の大名がその流派の達人を召し抱えるなどして砲術訓練を盛んに行いました。
例えば米沢藩上杉家は岸和田流、忍藩は武衛流・荻野流など各藩が様々な砲術流派を取り入れ鍛錬に励んでいたようです。
江戸時代に入り、戦がなくなると砲術は実用を離れ各流派が守り伝える武芸となっていったのです。
幕末に西洋砲術が渡来するまでそれら和流砲術の勢力は顕著なものでありました。
火縄銃が日本に伝来して数多くの鉄炮が製造され、実戦で使用されるなかで炮術も武芸の一流として確立されていきました。
砲術は一子相伝が多く口述や秘伝書により代々伝承されていったのです。
高島秋帆(たかしましゅうはん/1798年~1866年)が幕命で天保12年(1841)に徳丸ヶ原(現高島平)で行った操練は西洋近代砲術で日本が近代国家に歩んでいく歴史のひとつとして挙げられます。
この高島流砲術を現代に伝承保存する「西洋流火術鉄砲隊保存会」の隊士の方々も日本銃砲史学会の会員として活動されています。
今回は鉄砲(火縄銃)の砲術についての「銃砲入門」でしたが、次には大砲の砲術についても「銃砲入門」で解説できればと思いますので皆さん一緒に勉強していきましょう。
砲術に関する書籍には日本銃砲史学会第二代会長であった安斎實著の「砲術ーその秘伝と達人ー」があります。皆さんぜひ読んで参考にしてください。
また、日本銃砲史学会宇田川武久理事長の著書「江戸の炮術ー継承される武芸ー」も併せて読んで勉強しましょう。
その他にも「砲術」に関する書籍・研究報告書などが数多く出版されていますので日本銃砲史学会ホームページの「書籍紹介」ではそれらの書籍を逐次ご案内していきますのでご覧ください。