特別史跡 埼玉古墳群「鉄砲山古墳」現地レポート
埼玉県行田市にある埼玉(さきたま)古墳群。5世紀後半から7世紀中頃にかけて150年以上に亘り大型古墳が数多く築造された古墳群です。
埼玉県の名の由来になっており、国宝・金錯銘鉄剣が出土した稲荷山古墳、忍城の水攻めのために築かれた石田堤の一部も遺っている丸墓山古墳、武蔵国最大の二子山古墳など前方後円墳8基、大型円墳1基、いくつかの小型古墳が点在しています。
その中に「鉄砲山古墳」という、古墳にしては珍しい名前のものがあります。
幕末に忍藩が砲術訓練所として利用していたことに由来するそうで、詳しく調べてみようと現地に行ってきました。
JR高崎線「行田」駅から市内循環バスに乗って「埼玉古墳公園」下車徒歩2分。自家用車で向かう場合は「さきたま古墳公園」の中央にある広大なスペースに駐車することになります(古墳保存のため園内に車で入ることはできません)。
ここから園内を歩くことになりますが、主だった古墳をすべて廻ろうと思ったら3km以上歩く覚悟が必要です。
自転車があると大変便利です。
公園内には「さきたま史跡の博物館(https://sakitama-muse.spec.ed.jp/)」という施設があり、国宝・金錯銘鉄剣をはじめ出土品が展示されています。
鉄砲山古墳の発掘調査によって見つかった鉄砲玉(1匁~200匁相当、ミニエー弾など18種類・154点)もここの資料室に収蔵されているものの、残念ながら一般公開はしていないそうです。
江戸時代から明治・大正に至るまで「御風呂山」と呼ばれていた前方後円墳が、昭和10年代に旧忍藩の角場(砲術訓練所)になっていたことに由来して「鉄砲山古墳」の名を与えられ、現在に至っているようです(訓練当時は「埼玉村角場」と呼ばれていたとのこと)。
墳丘全長107.6メートルは埼玉古墳群の中では3番目の規模を誇ります。
葬送儀礼の場と考えられる造出し(北側のくびれ部分にある突出部)がえぐられており、ここから多量の鉄砲玉が出土したそうです。
えぐれの手前右側に土塁状の遺構がありますが、ここが砲術訓練の際に的の観察役が隠れた「矢見塚」だそうです。
さきたま史跡の博物館発行のガイドブックには、砲術訓練所想像図も掲載されています。
的場はここだとして、どこから撃ったのか、射座の場所が気になります。
さきたま史跡の博物館の学芸員に伺ったところ、角場の調査は進んでいないそうです。
最大の理由が北側が私有地になっているためで、近くの石材店の材料で埋まってしまっています。
200匁やミニエー銃の射撃訓練もしていたということで、的から30m、50m、100m、200mの辺りを詳しく調べたいところですが、石材に阻まれて遺構を見つけることはできませんでした。
幕末の忍藩は品川第三台場を守っていたため、砲術訓練は盛んに行われていたようです。
時期的にも砲術流派は西洋流だと予想しますが、引き続き資料をあたって明らかにしていきたいと思います。
[取材/設楽英一]
参考資料
「特別史跡 埼玉古墳群ガイドブック」埼玉県立さきたま史跡の博物館
「埼玉古墳群発掘調査報告書 第二集 鉄砲山古墳」埼玉県教育委員会